①


『~したいと思います』という文体が世間にこれだけ蔓延したのは、いつからなのだろう。


YouTubeチャンネルのオープニングではユーチューバーが明るい声で「今日はハムカツを揚げたいと思います」などと明るく叫んでいるし、インターネット上でのゴシップブログなどでは「それでは○○○子さんの今までの経歴を説明したいと思います」などと前置きしてから芸能人の経歴(それも大抵は誰でも知っている薄っぺらい内容)を語っている。しまいには会社のミーティング時などで当番が「これからミーティングを始めたいと思います」と言い出す始末。ミーティングはアナタがやろうと思おうが思うまいがやるんですのよ……と心の中で呟かざるを得ない。

②

過去のことを話すのは老害の証拠ではあるが、敢えて私の話をするのであれば『~したいと思います』という表現は小学五年生の時に卒業した。正しく言えば、卒業せざるを得なかったのだ。


当時の担任は優しい先生ではあったが、なにやらこの『~したいと思います』という表現にめっぽう厳しかった。国語の授業で『委員会』をテーマに作文を書くよう指示された際、保健委員だった私は常日頃から保健室の先生の業務負担や業務繁忙を憂いていたため、先生がどれほど毎日業務をこなしているかを書き綴り『先生の負担を減らすよう、保健委員として頑張っていかなければいけないと思う』と結んだ。それがいけなかった。いつも優しい担任に呼び出されて「今日の作文出来が良かったからなーウフフ!褒められちゃったりして」などと能天気なことを考えながら職員室に向かった私に待ち受けていたのは、賞賛ではなく『書き直し』の四文字だった。

③


担任は「なぜ書き直さなければいけないんですか」と食い下がる私に「頑張っていかなければいけないと思うのなら、どうやって頑張って保健室の先生の負担を減らすのかを考えて書きなさい」と告げた。思っているだけでは事態は何も動かない、というようなことも言っていたように思う。ともかく、この内容ではいけない、高学年になったのであればワンランク上の作文を書けということなのだった。それまで作文においては割と高評価を受けることが多かった私にとって、これはかなりショッキングな出来事であった。そしてこの日以降、私は『~したいと思います』という表現を使わないように今日まで生きてきた。


そのようないきさつもあり、個人的には『~したいと思います』が蔓延している昨今の状況には違和感を覚えているのだが、言葉というものの移ろいやすさもわかっているつもりである。現在、これだけ使用頻度が上がっている『~したいと思います』は、それだけ時代に合った言葉なのだろう。何かを断定し、それが間違っていれば責任を問われ、炎上し、こき下ろされるような世界で「私はこういうことをしたいと思っていますけど一切責任は負いませんよーあくまで個人の感想ですよー」と、責任が自分にないことをアピールできるこの言葉は、自分に火の粉が降りかからないためのバリヤーとして機能しているのかもしれない。


そんな考察を仕事中にしていると、上司に呼ばれた。仏頂面の上司が指さす先には、以前指示されたまま未着手になっている仕事のプロットが置いてあった。マズい。薄らぼんやりと『~したいと思います』について考えている場合ではなかった。「どうするの?やらんの?やるの?いつやるの?」といらだつ上司。ここで「今でしょ!」などと数代前のボケを挟んだところで火に油を注ぐであろうことは必至。何とか上司をなだめつつ、指示を忘れていたわけではないんですよということもアピールしたい。どう回答するのが的確か……数秒の逡巡の後、私は顔を上げて言った。


「早急に取り掛かりたいと思います」

④


苦し紛れの私の口から発せられたその言葉は、まさに「やらなかったことに対する一切責任は負いたくありませんよー怒らないでー」という私の本音がありありと出たものだった。冷めた目をした上司は「思ってないでさっさとやれ」と苦虫を噛み潰したような表情で呟き去っていった。残された私は「やっぱり思っているだけではダメだったわ」と約三十年前の担任の言葉の正当さを感じるとともに、自分は言葉に苦言を呈すことができるような崇高な人間ではないという事実を噛みしめるしかないのだった。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
というわけで、9月最初の更新は趣向を変えて、挿絵入りエッセイにしてみました。四コマで納めきれないからやめたネタがあったり、漫画を描くのがしんどいなと思ったりしていた時に、ほかの方のブログで文章だけ更新されているのを見て、ああこういうのでもいいんだよなー肩の力を抜こうと思いまして、今回試験的にこういった更新をしてみました。文章を書くのが久しぶりなので読んでいただくのも恐縮なのですが、暇つぶしにでもしていただけたら幸いです。